2017年3月10日金曜日

足利・佐野



なぜこんな時期に足利へ行くことになったのか、理由については前回お読み頂いた方にはカンタンに、ご想像いただけるのではないかと・・・ハイ、正解です。ご覧のように、甚だ頭の構造が単純な人間でございます(^ ^;)
地図を眺めると、「夕日が綺麗な街」はギリギリ、私の脚で日帰り自走可能な圏内にあるみたい。栃木市往復から二週間経っていないので、正直、キツイな・・・と思いましたが、去年は全くダメだったロングライドに弾みをつけるためにも、ここは思い切って出かけることにしました。

本日も一筆書きすることを目標に、一時出発。
前回帰路に津久井道を使った際、宵の渋滞に嵌って消耗したので、今回はいつもの鶴川街道を使う計画を立てました。よって、往路はやや西に逃げて、関戸橋を目指します。蔵の街を目指した朝よりはやや気温が高いので、一番上はライダーズ・ジャケットに止め、ダウン・パーカーは置いて家を出ました。ひっそりした青葉台駅前を抜け、三輪から鶴見川CRを遡って鎌倉街道へ。卸売市場までがキツイキツイ。ダーーーーと下ります。ニュータウンまるごとベッドの中らしく、通りにはだ~れも、いない。
ニュータウンはベッドタウン。みんな誰かの横で、寝てるのかなあ~
寂しいことだなあ~
さっびしいと~きはっ  うったうのォ~さっ♪
90年代歌謡で自慢ののど(?)を鳴らしつつ、丑三つ時のベッドタウンを走り抜けます(←大迷惑)。
関戸橋を渡って多摩サイへ。こんな時間でもトレーニングしているサイクリストがチラホラいて、ビックリ。日野橋から奥多摩街道。昼間は学生さんが多い通りも、だ~れもおれへん。拝島三叉路まで走って東京環状へ。トラックさえほとんど走っていなくて、快適至極。灯も疎らに深く眠込んだ様子の基地の街を抜け、三時半過ぎ入間に入ります。
長~い、埼玉の始まり。



2:15a.m.  関戸橋  こんな時間にも多摩サイにはサイクリストの姿


圏央道ICを過ぎて台地を駆け下り、入間駅前からR407へ。少しトラックの姿が目立ってきたかな。豊水橋で救急車とすれ違いました・・・背中に氷を入れられたような感じ。高萩北の「日光街道杉並木」は念のため、歩道を走らなければいけないかな?・・・と思いましたが、入間から二十分ほどで着いてみると、相変わらず交通量が少ないので、車道を維持して走り抜けます。鶴ヶ島に入るまでの二キロ弱を全力で漕ぐ間、四、五台のトラックに追い越されますが、側方間隔は十分に取ってくれるので、危険は感じずに済みました。シートポスト・バックパックの上下にフラッシャーを点灯させているので、しっかり視認して戴いているのだと思います。
越辺川を渡って千人同心街道に入り、五時に高坂。何故かシャックリが止まらなくなったので、コンビニで一休み。逆立ちしながら、ポカリをゴクリと飲み下します。ネックゲーターで口を覆い走ったのですが、早くもディーゼル・パティキュレートにヤラレたかも?
東松山の街もまだ、眠りの中。寂しいなあ~・・・どーせ誰も聞いてないし、歌っちゃえ。左の闇に下沼・上沼を認めながら、市ノ川を渡って再びR407へ。一人有線放送状態で最初のうちはロックやらポップス(←死語?)やら歌ってましたが、疲れてくるとヤッパリ、演歌が増えます(^ ^;)



基地の前も交通量少なく快適♪        4:00a.m.  入間川を渡る

6:00a.m.  熊谷へ入る


暗~い・・・
        寂し~い・・・
                よく見えないけど、周りは畑ばっかなんだろうな~

・・・トラッカーは演歌!という不滅の法則がなんとなく分かりかけた所で、ルートチャートにある村岡の交差点。奥武蔵の山際を走る馴染み深いr11号が、西から合流します。東の空が赤く染まって、荒川に駆け下りた頃、長かった夜が明けました。

荒川大橋を渡り熊谷市街へ。荒川サイクリングロードの起点がココだと聞いた覚えがあるのですが、改めて検索すると熊谷大橋という記述もありますね。。。どっちなんだろ?いずれ、このテーマも真面目にやらなければいけませんね。
跨線橋から中山道。太田方面への標識に気を付けながら2キロ弱西進し、熊谷警察前から再びR407へ。物流のトラックが一気に増える時間帯ですが、道幅に余裕があるのでとても快適です。それにしても、前回の加須県道は本当に怖かった・・・熊谷バイパスを過ぎると田んぼの中を真直ぐに貫く道。そろそろ北関東の雰囲気なんですかね?西に雪を頂いた峰が見えますが、赤城山でしょうか?ここ何回かのライドで見分けられるようになった日光男体山は、正面のやや東寄りに見えます。熊谷から1時間弱で刀水橋。「とすいばし」って読むのね。「坂東太郎」の他にも別称があるのですね。勉強になるなあ。

橋の上からは周囲の山々が良く見えました。カルデラの中に一段高い円頂丘が見えるので、正面西寄りに聳えるのは赤城山みたいですね。聞くところでは、どっちから上っても、どえらくキツイ坂道が延々続くとか・・・



7:00a.m.  利根川に架かる刀水橋の上から    正面西寄りに赤城山・東寄りに日光男体山を望む


朝食に入った店でサービス券落としてしまったら、トラッカーのお兄さんが親切に届けてくれました。沁みる・・・m(_ _)m
八時前に太田市街へ。東武鉄道の駅前は土曜日ですが活気があり、お巡りさんが交通整理しています。1キロばかり北へ進むと左・桐生、右・足利の標識。目的地が近づいてきましたが、折り返し地点を目前にGPSが故障したらしいです・・・何故かトリップが94キロを指したまま、数字が延びません・・・(T T)
LCD表示を標高や走行時間・消費カロリーやコンパスに切り替えるボタンを押してみますが、無反応。おそらくGPSログの記録もストップしている筈。つまり、復路は全くログを記録できない訳で、ガックリ・・・(T T)
バックパックに忍ばせてあるバックアップ用GPSロガー(HOLUX M-241)が終わりまで無事、仕事を続けてくれることを、祈るしかないようです。。。

東武伊勢崎線の線路に併進しすると、いよいよ渡良瀬橋の北詰めへ。ギャーッ!工事中やないかっ!!


【『渡良瀬橋』♪の渡良瀬橋】


8:20a.m.  渡良瀬橋に到着    南半分は養生されて工事中・・・橋の北詰め    通勤・通学路なのか、橋の上は賑やかです

昭和九年竣工の下路平行弦6連ワーレントラス橋夕日の写真は少し下流側から撮られたものが多いのか?


養生幕で覆われた姿を見た時には、どんだけ運が悪いのか・・・と気落ちしましたが、幸い塗装工事が行われているのは全長243mの橋の南半分だけで、例の歌碑がある北側は既に工事を終えて、薄灰色に塗られたばかりのワーレントラスが姿を見せていました。 昭和九年(1934年)にこの場所に架けられてから、一度改修されただけとのことなので、お手入れが必要な時期なのでしょう。
北詰に渡って写真を一枚。東武伊勢崎線の足利市駅と両毛線の足利駅の間を移動する人が、橋の北側に設けられた歩道を気忙しく行きかいます。R293が隣の隣の橋を通り、R50・R122・R407という幹線も近いので、車の交通量も多いです・・・想像してたのと少し、雰囲気違うなぁ・・・(^ ^;)

河川敷の道を東に200mほど進むとお目当ての歌碑があります。本日最初の目的地。この日、後で訪ねた「角の床屋」さんでパンフ(『渡良瀬橋を訪ねて』社)足利市観光協会発行)を戴いたのですが、その中に森高千里さんが、この歌詞を作った経緯を寄稿しています。 地図帳に見つけた「渡良瀬橋」の名から、「北関東の小京都にかかる古い時代からある情緒ある橋」をイメージしていたのが、実際足を運ぶと、鉄道の橋を思わせる錆びた武骨な鉄橋で驚いた・・・旨を書かれていますが、この場所から橋を眺めると確かに、今にも列車が轟音を立てて渡って来そうな錯覚を覚えます。


【八雲神社】



足利公園に隣接する緑町の八雲神社  平成24年に焼失した社殿の再建工事中でした


通五丁目の八雲神社(写真:左)と、大門通の八雲神社(写真:右)  市内には他に二箇所、八雲神社があるとのこと


渡良瀬川は丁度、真西から真東へと流れていて、足利の市街から見ると、橋の背後に夕日が沈むのを見る位置関係になります。時間の関係で、歌にある「夕日が綺麗な街」を眺めることが出来ないのが、なんとも心残りですが・・・

『渡良瀬橋』は93年のヒット曲ですが、その年のワタシといえば最低で、試験には落ちるし、上司には怒られてばかりだし、例によって女の子とは縁がないしで、毎日噎せるような気分で街の底を這いまわってました。
バブルは弾けたけれど、その残り香らしきものが二~三年上の先輩方の周囲には漂っていた頃。引き比べて我が身は、仕事が明けたしわくちゃのお姉さま方の横でメシ食って、営業に出掛けるような毎日で、有線でこの曲がかかったりすると、一体どこの世界の話だと!?・・・どの店に入っても掛かっているこの曲を、複雑な気持ちで聴いていたわけで、前回、藤岡橋で渡良瀬川を渡った時、この曲の旋律が口をついて出た時は意外な感じがしました。

一見すると押しボタン式の歩行者用信号機にも見えるこの歌碑、緑色のボタンを押すと、結構な音量で例の曲が流れます・・・
折角なので、通学途中の学生さんやら、信号待ちのドライバーやら衆人環視のもとで、路上カラオケを敢行。 正直、いつ覚えたのかもわかりませんが、歌碑をほとんど見ないで三番まで歌えたのは、我ながら衝撃でした(笑

この後の床屋さんで貰う観光協会のパンフに、足利に数回訪れただけでこの詩を書いた・・・みたいなことをご本人が書かれていますが、ホント、この風景にピッタリの素晴らしい詩ですね。


【「床屋の角の公衆電話」♪】




バブルといえば破裂した苦汁を舐めた記憶しかない世代なわけですが、あの時のオトナの年齢にいざ自分がなってみると、先輩方に比べてマシな生き方をしているとは、口が裂けても言えないなぁ・・・(>_<;)
両毛線の踏切を渡って、緑町の八雲神社へ。なんだかこちらも工事中・・・(T T)
スサノオの命を祭る祇園信仰の神社で、足利の総鎮守とされる社です。公式ページによると、日本武尊命が東征の途次、出雲大社の御祭神を勧請したのが創建とのこと。平成二十四年に不審火により社殿が焼失してしまったとのことで、訪れた当日も工事が行われていました。再建にあたっては、森高さんも寄付されたとのこと。

緑橋の通りを北に走り、旧国道50号交差点・通七丁目の「床屋のかど」へ。ブロガーのお約束通り、電話ボックスの前に自転車を停め写真を撮っていると、歌詞にある「床屋」こと、尾沢理容店のご主人がお店に招き入れて下さいました。
ファンの方には有名な話らしいのですが、NTTが利用者の減少を理由に電話ボックスを撤去しようとした際に、こちらご主人が中心となり反対運動をされたそうです。その後、足利市が正式に撤去延期を申し入れて実現した経緯を踏まえると、歌詞の電話ボックスが今日ある、いわば殊勲者とでもいうべき方。アツいコレクションの数々を見せて戴きます。一番上段には勿論、森高さんのサインが。



『渡良瀬橋』公式バッジをゲット!


売り上げの一部が東北復興支援にあてられる由。織姫神社への行き方を尋ねると、道順を丁寧に道順を教えて下さったばかりか、階段が229段(!)もあることや、自転車なら神社上の公園まで上る道があることまで教えて戴きました。 「鑁阿寺はぜひ観て行って!」とのことで、織姫神社の後で寄る予定だった足利学校との効率が良い見学順序も教えて戴いてから、辞去。開店前の忙しい時間に、十五分余りも貴重なお話を聞かせて戴き、おかげさまでとても良い思い出になりましたm(_ _)m
大変気さくなご主人なので、ファンの方は是非、お話を伺うとよい思い出になるんじゃないかなと思います。


【織姫神社】


229段のはじまり・・・本殿前からの眺望  左端が渡良瀬橋
足利織物の隆盛を願い昭和十二年に再建された朱塗りの神殿夜景スポットとして恋人たちに人気とか・・・


尾沢理容店のご主人に貰った観光協会発行の市内案内図(『渡良瀬橋』の歌詞付き!)を見ながら、山際の道を教えて戴いた通り進んで、九時半前に織姫神社の駐車場に到着。公園への道を自転車で上ることも考えたのですが、階段を上った方が時間的には早いとのことなので・・・駐車場の自販機裏に地球ロックして、ビンディング・シューズでヨタヨタと、階段を上ります。
足利織物の隆盛を願う「機神(はたがみ)さま」として建立された織姫神社ですが、今は縁結びの神様として信仰を集めているそう。なので、適齢期の若者が多い参道を、ぶたエキスのにほひを漂わせながら上るオサンの、嗚呼堂々たる異物感。さすがに夜景スポットして有名なだけあって、本殿の前からは街を一望!勿論、渡良瀬橋も見えます。

歌詞に歌われた街並みを眺める為に229段を上ったので、目的は達したわけですが・・・ここまで来てお参りしないで帰るのも失礼なので、朱塗りの拝殿に参拝します。神社に参拝するのって、あまり経験が無いので、うろ覚えのまま二礼二拍一礼。ボケちゃって県を跨ぐ徘徊して、周りに迷惑かけたりしませんように、そもそも寝たきりスパゲッティになったりしませんように、オリエント工業以外のパートナーとかお願いできたら大変ありがたいです・・・とか、お賽銭して三つのお願い(日本昔ばなしもアリババも、「お願い」といえば自動的に三つと思ったのですが・・・ダメ?(汗)
・・・流れ落ちる涙を如何ともし難く、若者の間を縫い階段を駆け下りて、お次は鑁阿寺なんだからねっ!(泣


【鑁阿寺】


永禄七年(1564年)に足利義輝が寄進した山門正安元年(1299年)築の国宝・鑁阿寺本殿
徳川歴代将軍の位牌を祀る多宝塔歴代の足利将軍の坐像が安置される経堂
徳川家斉が寄進した霊廟・御霊屋境内が足利氏宅跡である事を示す碑


理容店のご主人に教えて戴くまで、ここを見学コースに入れていなかった不明を恥じるばかりなのですが・・・地元の方には「大日さま」と親しまれる鑁阿寺(ばんなじ)は八百年の歴史を誇り、「坂東の小京都」と称される足利の中心に位置する名刹なのです。

例によって、聞きかじったばかりの歴史を、臆面もなくまとめてみると・・・
平安時代後期、源氏の祖である源義家の子・義国と子の足利義康(足利氏の氏祖)がここにほぼ正方形の堀と土手を築き、居宅を構えました。建久七年(1196年)その敷地内に、室町幕府をつくった足利尊氏から数えて七代前の当主・足利義兼が、大日如来を奉納した堀内御堂を建立したことが、鑁阿寺の創建とされています。真言宗大日派の本山であるこのお寺は、このような由来もあって、境内全体が足利氏宅跡として国の史跡に指定され、また中世武士の居宅の姿を今に伝えるものとして、財)日本城郭協会が定める『日本百名城』の一つに数えられてもいます。

堀脇の標識に自転車を地球ロックして山門へ。建久七年(1196年)足利義兼が建立したものが兵火により焼失後、永禄七年(1564年)に足利義輝が再建したものとのこと。両脇に仁王像が配されています。
歩くと正面に本殿。現在観ることが出来るのは正安元年(1299年)に七代当主足利貞氏が再建した建物で、正面・背面に唐破風が付いた入母屋造。鎌倉時代の代表的な密教寺院建築として平成二十五年、国宝に指定されました。元禄年間に建立された観音壇厨子の中に鎌倉時代後期作とされる本尊の大日如来像が安置されているとのこと。やはりお賽銭して、大日如来さまにも色々お願い・・・(^ ^;)
玉砂利を踏んで境内を進み、カラフルな五色幕が張られた多宝塔へ。 元禄五年(1692年)築で高さは約20m・徳川五代将軍綱吉の生母・桂昌院が寄進したもので足利家の大位牌とともに歴代徳川将軍の位牌も祀られているとのこと。
大イチョウの北側は不動堂。江戸時代中期に造営された建物には、成田山より勧進された不動明王像が本尊として祀られているとのこと。右側には足利氏が使用したという八百年前の古井戸があります。
西隣の建物は、足利義兼が正妻の供養の為建立したと云われる重要文化財・経堂。応永十四年(1407年)に当時の関東管領・足利満兼が再建した現在の建物には、歴代足利将軍の坐像十五体が安置され、堂内八角に輪蔵があり、一切経二千余巻が保存されているとのこと。
朱塗りの塀が目立つ北西隅の御霊屋は、源氏の祖神と足利義康・義国の墓碑が祭られた霊廟で、現在の建物は十一代将軍徳川家斉が寄進したもの。別名足利大権現・赤御堂とも呼ばれ、正和年間(1312~1317年)に作られた伽藍配置図にも記されているそうです。


【足利学校】


入徳門
扁額は紀伊徳川家第十一代藩主・徳川斎順の書
寛文八年(1668年)創建の学校門
大正四年(1915年)築の遺蹟図書館
左脇に東郷平八郎が植樹した月桂樹が
方丈と字降松(かなふりまつ:写真左端)明代の古廟を模した孔子廟


足利将軍家ゆかりの街は、東西に横切る通りと南北を走る通りとで碁盤目状に区切られていて、とても分かり易いです。パンフレットの地図を見ながら走ると、「坂東の小京都」の呼び名がピッタリであることを感じます。鑁阿寺の山門から百メートルほど南へ下り、地元の方に「学校さま」と呼ばれる足利学校へ。
足利学校は儒学・易学・兵学を教えた中世の高等教育機関で、日本で最初の「大学」とも謂われます。
日本全国から三千人以上の学生が集まったという、十六世紀半ばの最盛期には、イエスズ会士の手により、足利学校の名は海外にまで伝えられました。 フランシスコ=ザビエルは、天文十八年(1549年)にゴアの全友会に宛てた手紙で、「坂東の大学」とか「坂東の学院(アカデミー)」について触れ、またルイス=フロイスも著書『日本史』の中で、「足利の大学」が布教の上で「もっとも重要」と述べています。 四書六経(五経に『孝経』を加えたもの)ばかりでなく、兵学や吉凶を占う易学を教えたことから、足利学校の出身者が戦国大名の軍師として仕える例がしばしばみられ、武田氏の軍学書である『甲陽軍鑑』の記述(「占いは足利にて伝授か」云々)からも、足利学校が戦国武将の間で卜筮の権威と認められていたことが分かるとのこと。

「入徳」と書かれた額が掛かる門を潜って、自転車を駐めます。立派な厚紙に「日本最古の学校  足利学校 入学証」と刷られた見学券を購入。「最古の学校」?うーん・・・受付の人に「ビデオを上映しているので観て行って下さい」と言われ、「ちょっと時間が・・・」と思ったのですが、足利学校の歴史が十分ほどの時間に分かり易くまとめられているので、これは是非、ご覧になって入館した方がいいです。



天文四年(1535年)に作られた孔子座像小倉百人一首の参議篁として
知られる小野篁公の像
方丈・庫裏の前に広がる南庭園


禅宗寺院形式の方丈  講義や学習、接客のため使用された学舎


ビデオによると・・・
足利学校の起源については、奈良時代の国学(律令制下、国府に付随して設けられた地方官吏の養成機関)の遺制であるとする説・平安時代に小野篁(おののたかむら)により創建されたとする説・あるいは鑁阿寺と同様に足利義兼が創建したとする説(「高野春秋編年輯録』巻七」に「足利義兼は足利に寺と共に学校を持っていた」との記述がある)など、現在諸説があるとのこと。室町時代末期の永享~文安年間に、関東管領・上杉憲実が鎌倉円覚寺の僧・快元を招き、蔵書を寄贈して「学規三ヶ条」を定めるなど、以前よりあった学校を「再建」、或いは創建したことは間違いがなく、前者の傍証として、永享の乱の憲実の相手方・鎌倉公方足利持氏が残したとされる、「長徳寺文書」中の「学校省行堂日用憲章写」があげられるとされています。

足利学校の象徴・學校門をくぐり、紀伊徳川家第十代藩主・徳川治宝の書による扁額が掛かる杏壇門(きょうだんもん)をくぐると、正面に孔子廟。明代の古廟を模して造営された「大成殿」とも呼ばれる聖廟で、寛文8年(1668年)築。孔子の座像と、足利学校の創建者と言い伝えられる小野篁(おののたかむら)の像を祀っています。
学舎である方丈の手前に「字降松(かなふりまつ)」と書かれた松の木が。足利学校の最盛期に世庠(校長)を務めた第七代九華(1550~1577年在任)の頃、読めない字や意味の解らない言葉などを紙に書いてこの松の枝に結んでおくと、翌日にはふり仮名や注釈がついていたことから、この名で呼ばれるようになった由。
巨大な寄棟の茅葺屋根(地上からの高さは13.8m)が遠くからでも目を引く方丈は、講義や学習、接客のため使用された学舎。台所として使われた庫裏が入口になっているのですが、三和土の外に奇妙なモノがあります。

門型の支柱に金バケツを吊ったような形。「宥座之器」は、孔子の説く「中庸の精神」を学ぶ為の仕掛けなのだそうです。水を汲んで吊られた器に入れるのですが、水か足りないと傾いたまま、多過ぎると器が反って水がこぼれてしまう・・・というわけで、案内に従って三回試してみましたが、器を水平にすることはできませんでした・・・(^ ^;)


供物の器類  「爵」は盃・
「犠罇」「象罇」は酒樽との事
江戸時代の唐草文様磁器
明治の初め学校が荒廃した時期に
割れてしまったものが多いらしい
学校で使われた硯や灯明具
宋版 尚書正義(国宝)
版本で最も古いものとのこと
宋版 周易注疏(ちゅうそ:国宝)
十二世紀の易経の解説書
宋版 礼記正義(国宝)


収蔵書籍を展示する一角に進むと、『国宝』の文字が次々と出てきて、驚きます。上杉憲実が足利学校で教える学問を三註・四書・六経・列子・荘子・史記・文選のみに限定したことから、展示される書籍も儒学の本が中心です。憲実とその子・憲忠が寄進した南宋時代のものが多いですが、『文選』は永禄三年(1560年)に北条氏政が第七代庠主・九華に贈ったものとされています。

九華が庠主を務めた戦国時代後期が足利学校の最盛期で、世界史では大航海時代にあたる当時、布教に訪れたイエスズ会宣教師により、足利学校は海外にも紹介されました。記録の写しを引いて、詳しく展示されています。
フランシスコ=ザビエルは天文十八年(1549年)にゴアの全友会に宛てた手紙の中で、都の外には五つの大学があるとして高野山・根来寺・比叡山・近江とともに足利学校の名を挙げ、「それらの中でもっとも有名で、最も大きいのは『坂東(関東)の大学』である」と述べているそうです。
またルイス=フロイスも著書『日本史』の中で足利学校に触れ、「もっとも重要な足利の大学でキリスト教を広めることが出来れば、日本人のキリスト教への改宗は容易になるだろう」と述べて、足利学校の儒学教育が日本における布教の障害になっている点を指摘しています。



二十一冊からなる南宋時代の詩文集『文選』(国宝)
中国の春秋時代から梁まで約千年間の代表的詩文八百編を収載したもの
左の第三十集巻末には、寄贈者である北条氏の虎印(「禄寿応穏」)が

写真(左):徳川歴代将軍の位牌    写真(中):曲彔(きょくろく)  禅僧が説法で使用する椅子    写真(右):仏殿の間・尊牌の間の全景
https://4.bp.blogspot.com/-iFdX5xaCpXI/WJXXnbAQr9I/AAAAAAAAwbs/ApDFxZvUArgmL6MNpCbCTQ3bYiwgEnqcACPcB/s320/%25E8%25B6%25B3%25E5%2588%25A9%25E3%2583%25BB%25E4%25BD%2590%25E9%2587%258E%2B%2528189%2529.JPG
写真(右):回廊から北庭園景を臨む  中島には弁天を祀る石祠があるとのこと
寛政三年頃著された『境内惣坪数并諸建立物絵図』に北庭園が描かれている【マウスオーバーで絵図を表示】


順路に従って回廊を進み、庫裏から方丈へ。北側に東照宮大権現=徳川家康の位牌を安置する仏殿の間と、徳川歴代将軍の位牌が並ぶ尊牌の間があります。豊臣秀吉の小田原征伐の際には、貴重な収蔵書が京都へ持ち去られるなどの危機もありましたが、江戸時代の前期~中期にかけて、足利学校は徳川家の庇護を受けて安定した時代に入ります。もっとも、幕府の官学が同じ儒学でも朱子学とされたこともあって、近郊の武士・庶民が通う郷学(藩公認の学校で藩校以外の教育機関)となり、中世には文字通り並ぶものの無い「知の中心」とされた盛名は衰えました。当時の儒学者たちには「貴重な収蔵書が収められている図書館」程度に認識されていたようです。

仏殿の間左側に安置された大位牌の「東照宮大権現」は容易に確認できますが、尊牌の間の位牌は、展示ケースのガラスの映り込みが大きく戒名が読みづらいです・・・
説明板によると、三代将軍家光から十一代家斉までの位牌が収められているとのこと。

北庭園を眺めて庫裏の三和土へ。明治維新を挟んだ一時期に藩校とされたものの、明治五年(1872年)には廃校となってからは荒廃が進み、貴重な収蔵物が売り払われるなどして散逸した例もあったとのこと。庫裏には後代の発掘により復原された収蔵物が展示されています。

一時間弱の駆け足見学でしたが、美しく復元・維持された五百年近く前の「学校」に、足利の文化水準の高さを感じました。
市立の小中学生は、足利学校で『論語』を大きな声を出して読む素読の授業を受けているそうです。




十一時半に再び自転車に跨り、「学校様通り」から旧国道50号へ。喫茶店の奥さんが声を掛けてくれたのですが、まだ折り返し点にも達していないので失礼させて戴きましたm(_ _)m
交通量が増えた道を、佐野目指して走ります。両毛線の跨橋の上からは、雪を被った男体山が大きく見えました。持参の『佐野ラーメンマップ』を手に右往左往しますが・・・大橋町にある筈の店が二軒とも、どうしても見つかりません・・・(T T)時間もないので諦めて佐野行田線を南へ。後で分かったのですが、佐野ラーメンの名店は幹線から一本入った路地にあることが多いらしいです。行田に向かう道は昔の日光往還と重なるとのことですが、二車線のバイパス風で走り易いものの、ロードサイドの景色が続き風情というものは皆無。腹が減って仕方がないので、例の如くチェーン店でお気軽に・・・と思いつつ、佐野厄除大師の入口からやや進むと、有り難いことに地球ロック駐輪が出来そうな佐野ラーメンのお店がっ!食事をする際に行列してまで食べたいとは、普段は正直、全然思わないのですが・・・三十分待った甲斐は十分ありました。



コチラの方が分かり易い佐野ラーメン会発行の地図(中)
「さのまる」の背後にエラく濃い看板が写っていることに、帰ってから気が付きました・・・


東武佐野線の跨橋からは赤城山が綺麗に見えました。美味しいものでお腹一杯になると、さすがに気持ちに余裕が出来ます(^ ^;) 十三時前に館林。これといって特徴のない駅前に迷い込んでしまいました。が、ともかく東に進めばR122に出る筈と線路を渡ります。ほどなくチャートに記したルートに復帰。数の多いトラックに混じって南を目指します。心配していた昭和橋は、歩道が併設されていて一安心。時折振り向きながら利根川を渡ると、先程まであれほど美しく見えていた山々が、次第に遠く、霞んでゆくのを感じます。

羽生に入り、上岩瀬の交差点で国道を下ります。強い向かい風を感じながら、田んぼの一本道を南へ。変化の乏しい風景の中、ペダルに力を込めても一向に速度が上がらず、焦りを覚えます。ポケットに忍ばせたチャートを参照しつつ行田バイパスを横切って、古代蓮の里へ。ここもGoogle+のコミュで投稿を見掛ける場所ですが、時間が無いので今日はスルー。行田市立なのにズバリ「埼玉中学校」の脇を通って、ほぼシームレスに行田蓮田線へ。鴻巣市へ入った所で、チャートにある「屈巣」という地名を確認。土曜日ですが学校の送り迎えがあるのか、ママさんドライバーが運転する軽自動車ばかりの道を、流れに伍して東へ走ります。十四時半に中山道に出ました。



だんだんお山が遠くなる寂しさよ・・・  1:30p.m.昭和橋

行田の廃屋(写真:左)と、鴻巣宿で見掛けたマネキン総動員のお店(写真:右)
どちらも、かなりの迫力・・・


鴻巣からはお馴染みの御成橋の通りを西へ。「川幅日本一」から先は交通量の割に路側が狭いので、ガラス片にヒヤヒヤしながら歩道を走ります。吉見町へ入り、チャートと照合しながら古谷の交差点を左折し、鴻巣川島線へ。赤信号でスピードを落とすと、十歳くらいの男の子とお父さんがロードバイクで横切ります・・・羨ましいっス、とか眺めてたら、立ちゴケしちゃいましたw。左半身全部使って、フレーム守りましたよ!!・・・転んだっていいぢゃあないか。人間だもの。(S年K議所のヤンエグな皆さんにお好きな方が多そうなあの詩人も足利の人)川島へ南下する間も車通りが激しく、神経を遣います。圏央道のIC近くで一度横断してからR254に合流し、越辺川と入間川を一跨ぎする落合橋へ。山田交差点を右に折れて、十五時過ぎ川越市街に入ります。土曜日とあって、蔵の街は人と車で、ごった返しています。ともかく事故らないように集中して走り抜けて、いつものかわとこ線へ。もう一時間遅ければ渋滞必至のこの道を、今日は計画通り、日暮れ前に抜けることが出来そうです。そろそろお尻が痛くて、ポジションとサドルの当りを細かく変えながら走ります。太田から足利へ入った辺りでフリーズして以来、GPSの距離計が死んだままなので、当て推量するなら、トリップはそろそろ200kmを指しているはず。所沢に入ってからは昔の基地の西縁に沿って走り、ハッピーホリデー気分の買物客が跋扈する航空公園のスクランブル交差点を渡りました。定点撮影ポイントでYS-11をパシャリ。十六時半に所沢を通過します。


2:00p.m.御成橋  お約束の一枚!荒サイは今日も自転車多いです
3:30p.m. 川越「蔵の街」の賑わい  ホント、事故らないよう必死・・・


東村山からは、やはりいつも通りに府中街道を南下。そろそろ渋滞が始まって、神経を遣います。ゴーストップの間、ほんの数十メートル進む間際でも「自転車、邪魔!」とばかり、車が追い越しにかかって来るので、転倒の危険を冒しても段差を越えて、歩道に逃げ込まざるを得ません。恋ヶ窪の下り坂ではいつも、冷や汗をかきます。府中駅付近は路線バスの間に挟まってゴーストップを繰り返しながら通過し、十七時半に多摩川を渡りました。是政橋の北詰めからは、夕焼け空にボンヤリ浮かぶ富士山が。鶴川街道は渋滞の左端を走って、ファイト一発!黒川の坂を上れば、あとはひたすら下るだけ。柿生付近の渋滞にも難儀させられましたが、上麻生線に入ってからはいつものコンビニ休憩も摂らずに走り続け、十九時ジャストに帰宅できました。

今日は行田で少し手こずった他は風も少なく、一日を通して穏やかな陽が差す、絶好のサイクリング日和でした。
心配したGPSログも、予備のm-241がしっかり記録してくれていて、取り合えず一筆書きで走ることはできたようでして。もっとも数字の方は相変わらず低調で、前回の栃木市往復に距離で3%及ばなかったにも拘らず、所要時間はほとんど短縮できませんでした・・・(>_<;)





例によって、駆け足で観るだけで終わってしまいましたが、「坂東の小京都」足利はしっとりとした風情が感じられる、大人の街でした。

脂汗垂らして這い上がった織姫神社から眺める足利の街は、歌の詞の通り、広い空と遠くの山々に抱かれるように広がっていて、今度に訪れる際は是非、橋の向こうに沈む夕陽を見てみたいと、切に思いました。
足利学校では、雑草一本無い庭やチリ一つ無く磨かれた方丈の回廊に、長い歴史に対する地域の誇り・尊崇の念を感じました。

大きな景色の中、自転車を走らせる楽しみが、何となく分かって来たので、機会があれば今一度訪れてみたいと思います。


こちらも宜しくお願いしますm(_ _)m
渡良瀬遊水地を(約)一周・1都6県一筆書き←新タブで2013年12月14日付記事が開きます。
栃木市の『蔵の街』へ←新タブで2017年2月11日付記事が開きます。
筑波山・加波山・つくばりんりんロード←新タブで2011年9月11日付記事が開きます。
忍城・さきたま古墳公園・ホンダエアポート←新タブで2017年1月22日付記事が開きます。








































・・・てなわけで!



我ながら、寂しいオヤジになったものよ・・・(T T)
森高ファンの皆様、ゴメンなさい・・・m(_ _)m

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